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―主よ、何処へ行かれるのですか? ―万軍の主って正しく将軍様のことだよね。
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 ■中学生の頃、時間の作り方について書かれた本を読んだ。その本は現在ちょっと手元に無いので正確な内容を記すことはできない。ただ、多分概ね「人付き合いを止めれば時間は出来る」とか「バイトは時間の切り売り」といったことが書かれていたと思う。


■当時私は「何を馬鹿なことを」と思った。書かれていることは確かに事実だろう。付き合いにかける時間は節約できる。しかし、それで人間関係を損なっては元も子もないのではないか、と考えたのだ。しかし今になって思うのは、そうした損失も含めてどちらを採るかということが自分の選択に委ねられているということである。無論その本は、時間の方を採るべきだ、という立場で書かれていた。だから下らないと思ったのだが、そこで選択にまで考えが及ばなかったのは何とも幼稚だった。


■ところで、今の私がどう考えているかについて述べようと思う。私は、やはりバイトは時間の切り売りだろうなぁと思う。勿論、お金以外に色々得るものがあるのだろう。しかし、多分そうしたものは社会に出ればどのみち得られる気もするのだ。また、たまに「いつ本を読んでいるのか」とか「良くそんなことを知っているね」などと言われることがあるが、それは私がそういう風に時間を使った結果に過ぎず、別に私の頭が優れているわけではない。ただ、私は人間関係を傷つけてまで時間をつくろうとは思わない。それは私が寂しがり屋であるだけのことなのだが、かといってあまり遊んでばかりいてもこれまた仕方がないので、適当に衡平を保とうとしている。


■以上の話は、私がバイトせずに生活することを両親が許しているから可能であることは重々承知している。一般にそうした生活が可能だとは思わないし、親のすねかじりだと言うことも出来るだろう。しかし一方で、アルバイトをしている人は全て、そうしてお金を稼がなければならないほどに逼迫しているのだろうか。私が見たところではあるが、どうもそうではないように思える。では彼らは何故働くのか。一つは物欲が強い場合だろう。これは単純な理由ので説明は不要と思う。もう一つは、ファッションとしてのアルバイトがあるのではなかろうか。つまり、皆がやっているからだとか「社会経験だよ」と言われてとか「バイトしていないと格好悪い」とか、そういうものである。


■私にはこの後者の要素も中々に強いと思われる。それ故に「学生ニート」なんて意味不明の言葉が出てきたのではないか。NEETは言うまでも無く、教育も受けていなければ就業も就業訓練もしていない人のことを指す言葉だ。学生である以上はニートたり得ない。それにも拘らず、アルバイトしていなければ「学生ニート」と蔑まれるのは「働いているわたし」を祭り上げた結果でしかない。あるいは、遊び呆けているだけの大学生という学生像があるのかも知れない。しかし、いずれにせよ人々が作り上げた虚像に過ぎないだろう。そういう意味で、あれは「ファッション」だと思うのだ。


■かくいう私も同様の理由でアルバイトをしようと思ったことがあった。そして、物の見事に失敗した。勉強と仕事を両立しようなどと無茶なことを考えたからである。当時の私は、皆が皆「両立」どころか全てを為していると思っていたのだ。ところが、実際はそうではなかった。時間も体力も処理能力も有限なのだから、当たり前だ。しかし、私は周りの皆が圧倒的に体力や処理能力に優れているのかと錯覚していた。事実は簡単で、皆何かを疎かにしていたのだ。但し、そうした選択をしていたかというと、それはそうではない。ではどうするのか。これまた簡単だ。誰かに「投げる」のである。つまり、嫌なことを押し付けておいて、後でそれを自分の成果とすれば「じかんをつくる」ことが出来る上に、何も失わないということだ。


■馬鹿な話だ、と思うだろう。そうだ、全く馬鹿な話だ。だが、きっと皆無意識にやっているのだと思う。中には意識してやっている人もいて、そうした奴には心底うんざりさせられるが、大半はさほどの悪意も無く「私頑張った!」と思っているのだろう。若しかしたら、そうしたことが「要領の良さ」とされるのかも知れない。ひょっとしたら、競争に勝ち抜くにはそれが必要なのかも知れない。しかしそれは決して単純な能力の証明ではない。だから、人に投げられないような状態にあるときに、果たして私が見ていた幻影のような処理能力を期待することはできないだろう。


■そういうわけだから、冒頭に挙げた本の著者は良心的だったのだろうと思う。実は、著者も似たようなことを本の中で書いている。確かその例は「友達なんだから、この翻訳(著者は翻訳者)をタダやっておいてくれよ」というものだったと記憶している。著者はこれを断った。それで飯を食っているので、当然であろう。そして、多分その友達は、要領のいい人に数えられるのかも知れない。だが、同時に人に尊敬されることもないだろう。もし彼が、自分の人望を信じているとすれば、それはきっと見せ掛けのものに過ぎない。いや、まぁ、そういう人も知っているからわざわざここに書くのだが。


■時間は作るものではなく、選び取るものなのだろう。そんなことを「あれ、この間笑点を見たばかりなのにな」なんて呟きながら思うのである。


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 ■嘗て私がテキストサイトをやっていた頃の話である。当時中学生だった私は当然ながら碌な文章がかけなかった。パソコンの前に座っても、今日あったことすらまともに文章に出来なかったし、ましてその文章を面白くするなど全く不可能と言ってもよかった。しかし私は絵も描けなければ、音楽も子供の頃からやっている人のようには出来ない。だからせめて文章くらいは上手に書きたくて、とある方に助言を乞うた。その時頂いた回答は「500~600字くらいでパンチの利いたことを書けるといいですね」というものであった。


■実に冗談以外の何者でもないのだが、私はただ500字埋めるだけのことすら出来なかったし、況や「パンチ」など利かせようがなかった。そのため、その目標が如何にも遠いものに思えたのも蓋し当然であろう。それでも私は、取り敢えず文章を書き続けた。毎日下らない文章を読まされる方にもなってみろと思わなくもないが、ともかく書いた。過去ログを見ると全く笑える。いや、勿論それは「笑わせている」のではなく「笑われている」の意味なのだが、とにかく別段面白くも無い文章なのだ。


■しかし、それでも書いたことによって得たことがある。それは「取り敢えず文章が書けるようになった」ということである。最初に述べたとおり、私はその日あったことを文章にすることすら出来なかった。それが、その日あったことや思ったことを文章にすることが出来るようになったのである。別に気の利いたことを言う訳ではないのならば、大したことはないと思うかもしれない。だが、これが意外と出来ないものなのである。諸氏もよければ試してみて欲しい。恐らく、思っていたよりは時間が掛かるだろう。


■そして今、私は相変わらずつまらない文章を書いている。しかし、同時にこの文章は呼吸をするように出て来るでもある。かつて500字を埋めることすら出来なかった人間が、それなりの見通しを持って1000字程度ならば苦もなく書くことが出来るようになったのである。だから、もし何かを書いてみたいとか、訴えてみたいという人は、どうぞ毎日、何でも良いので文章を書いてみて欲しい。内容の良し悪しはともかく、書けるようには必ずなると思う。書けないのは書かないからなのである。

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 ■ある人が「この道を極めるのは私が必要なものを得ることが出来るからだ」と考えたとする。しかし、往々にしてその人が「必要としている」ものは、それを「必要としなければならない」と思い込んでいるものである。そうして、理由を作って、その道とやらを極めるべく資源を傾注していくのだが、その過程においてその人は周りがまるで見えていない。当然だ。彼は真理を得ることが出来ると「確信」しているのだから。だが、そのようなものは幻想に過ぎない。彼の者が目指す「狭き門」は命に至る道ではないし、その行いも単にイデオロギー乃至党派主義に操られているだけのことである。そのような人間は、果たして自由なのだろうか。


■私はこれまで自由について考えてきた。そして、常に自由へと至る方法論を探ってきたつもりである。しかし、その過程では如上の誤謬を犯してきたことだろうと思う。そして、そのような幻想が破れたのは、自分達の作った同人誌―我々はこれこそ現代に必要なものだと考えていた思想をぶつけたつもりである―が、雑誌編集者らによって「こんなの読めないよ」と一蹴され、実際に販売実績も赤字こそ出なかったがそうたいしたものではなく、反響も全くないといった現実に直面したからである。我々は、我々の方法を実践することにより初めて、これまで解剖しつくしてきたと思っていた「外の世界」を直視したのであった。


■実に愚かなことだ、と思うかもしれない。しかし党派主義への道は本当のところ、広く開かれたものである。考えても見て欲しい。君たちこそは狭き門を通る資格があると言われて、どうしてそれを目指さないことがあろうか。恐らく、同じようなことは手を変え品を変え各地で行われていることであろうと思う。選民思想によって自尊心に訴えかけ、圧倒的なカリスマ性を以て教条を伝える。そして、教条に従ったものを讃え、そうでない者に対しても「何、まだまだこれからだ」と優しい言葉をかける。我々が幸いだったのは、我々の団体に何等の害意もなく、また実害もなかったことことだろう。


■然り、我々において党派主義が問題となったのは、単に出した本が売れないということだけである。従って、我々は路線変更を行えばそれで足りる。それに、何より先生の仰っていたことをよくよく解釈してみると、先生が戒めていたのは教条主義であり、イデオロギーであった。イデオロギーが如何に恐ろしいかを教わるにあたり、何時の間にか<脱イデオロギー>という名の別のイデオロギーに染まっていたのであるが、これは我々の過失であったと言っても過言ではない。先生はテキストを絶対視することなく、その歴史や背景などから解釈していた。ならば、我々も先生の仰ったことを自らの手で解釈し、それを自分の文脈に位置づけなければならなかったのである。


■ところが、我々は先生を尊敬するが故にこれを怠った。そしてそのことにより、物の見事に「訴えかけていくべき対象」であったはずの世間に返り討ちにされたのである。何が啓蒙だ、何が団結だ。我々こそ無知蒙昧で分断された一勢力・一党派に過ぎないではないか。


■このような党派―セクトが形成される過程において恐るべきことは、あまりに内向きであるのでその教義が「絶対」とされることである。ここで一つ「絶対」という言葉について考えてみたい。この言葉は裏の意味として独立とか断絶を表すことがある。absoluteというのはab-という接頭辞からも判るとおり、離れていることを意味しているのである。他の者と離れているが故に「絶対」であり、この絶対というのは他と関係がなく単独で成立するということだ。そうすると、その教義の絶対性を強めるのに、内向きで外界から断絶された共同体というのはまことに相応しいといえよう。


■読者諸賢は宗教上の論争についてバカバカしいと思うことはなかろうか。例えば、正教会とカトリックは聖霊が「父」からのみ流れ出すのか、それとも「子からもまた」流れ出すのかという問題を巡って分裂した。外から見ている我々からしてみると、非常にどうでもいい話である。だが、彼らにとってはそのことが生死にも関わるほどなのだ。何故ならば、そのように教えられてきたからであり、その教義は「絶対」であり、そして、そのような教義を真に知っているのは自分達だけであるという自負があるから、他の見解に耳を貸す気は全くない。そして、セクト―つまり、分派が発生するのである。我々こそ真理の担い手だ、奴らは偽者だ、ということだ。


■同様の問題は新左翼と言われた人々にも当てはまる。革マル派や中核派といった過激派が生じるのも実にこうした経緯をたどるからであると推測されている。しかし、考えてみると、革マル派の理論的支柱であった黒田寛一もまた、何度も官僚主義や教条主義といったものを戒めていた。勿論、彼は同時に組織のトップであったのだから、そうした問題に対して責任はあるだろう。しかし、最大の要因はやはり彼を尊敬するがあまりに党員が彼の「教条」を学ぶようになってしまい、その本質を見失ったことにあるだろう。


■そして「何故か」自分達の思想が受け入れられないとなると、組織は先鋭化する。先鋭化―つまり、その思想を極めれば、真理に近づき、そしてその思想は時代が求めているので、必ず受け入れられる「はず」だからである。しかし、当然ながら先鋭化は更なる乖離を招くだけだ。かくて、新左翼諸派は一様に没落の道をたどった。しかしながら、組織は解体せず、ただただ不毛に陥って今日に至る。


■所詮我々は自らの拠って立つべき規範は自分で打ち立てねばならないのだ。それが「言葉を自分の文脈に位置づける」ということである。そのような視点を少しでも見失うと、忽ちにイデオロギーの餌食となる。無論、別に飲み込まれても大したことのないイデオロギーだってある。恐らく、ある程度は誰もがそうしたものに食いつかれてはいることだろうと思う。しかし恐ろしいイデオロギーも沢山ある。飲み込まれていたことに後から気づくものの、気づいてからはどうしようもないものだってある。例えば「新卒で入社し、社内で出世し、定年まで働くことこそが成功である」ということがほぼ絶対視されている今の日本は、それはそれで一つの思想に染まっているといえよう。それは大きな弊害を生まないように一見思える。しかし、どうだろう?どこかで少しでも道を外れれば、その人は「落伍者」として扱われる。そのとき落伍者は気づき、そして同時に最早どうにもならないことを悟るのではなかろうか。それ故の自殺率の高さではなかろうか。


■彼は気づくべきだったのだ。そのような生き方をするにしても、それは自分で選んだものでなくてはならなかったことを。そして、自分で打ち立てた規範であるならば、それを変更することだって可能であることにも。私も嘗て、学生とはこうあらねばならないという考え方に囚われ、それがあまり上手く行かず非常に苦しんでいた。酷いときには死んでやろうかとさえ思うほどであった。しかし、今はそのような悩みを持つことはない。何故ならば、私は私の好きなように生きればよく、自らの思うがままに善く生きればよいということに気づいたからだ。私は勿論、善良であろうと思う。しかしその基準くらいは、自分で決めたい。無論、世のそれと比べてどうだろうかとか、どこまでなら許容されるだろうかということは判断せねばならないが、そうした作業を自分でやらねばならないのである。そうでなければ、ふとしたきっかけで「道」から外れたときに、どうしようもなくなってしまう。人の助けを借りながらも、道は自分で探さねばならない。そして、その道が人と同じであっても、それは全く恥じることはないのだろう。


■自分で考えることと、外界から断絶しないようにすることを両立させるのは難しいことなのかもしれない。しかし、畢竟「自己」とは、その「自己」と「他者」の関係において常に変化し続けるものである。そうした視点を持っていれば、自分なりの考えというものを確立することは不可能ではないと思う。無論、それが幼稚であると批判されることは数多くあるだろう。しかし、そのときはただ、そのような批判―つまり「他者」によって「自己」が修正されるだけのことである。そのとき「自分探し」だとか、そんなことをする必要は全く無い。目の前にある、修正されたところの「自己」こそが正しく自分であり、他者の影響を全く受けていない「自己」など本能以外にありえないからである。


■大学4年間で得たものといえば、こんなところであろうか。多分「そんなくだらないことを考えている暇があればバイトでもすりゃいいのにw」と言われるところであろう。いや全く。私もそうした「普通の」人生を送りたかった。こんなに早く「落伍者」になるとは、思ってもいなかったのだ。蓋し、一寸先は闇である。だが、一度転落した人間は、次に転落しても困らないのではなかろうか。勿論、転落などしないにこしたことはないのであるが……

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■ 『自民党 政権党の38年(北岡伸一)』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(カール・マルクス)』を読み終えた。どちらも政治モノであるが趣が異なるので、片方は好きだがもう片方は苦手という人もいるかもしれない。順に感想を述べたいと思う。

■まず『自民党』から。著者は奈良県出身の政治学者(政治史)で、現在東大教授。私も講義を受けたことがある。題名の示す通り自民党結党前史から政権を失う(宮沢政権)までを、文庫本一冊で書ききった好著であると思う。我々より少し古い世代が抱く、派閥均衡・無原則・金権などの自民党像が如何にして形成されてきたか、また歴代首相の性格、業績など、意外と知らない事が多く為になるだろう。そしてそれは今後の政局を占うに当たり重要な示唆を与える。同様の本に『歴史劇画・大宰相』がある。こちらはマンガながら、群像劇として非常に面白く、また内容も本書に照らし合わせてもかなり正確であると思われる。そしてさらにどうでもいいことに、顔が良く似ているのでその辺りも楽しみながら読めるだろう。文庫なので容易く読めるので、ついでにもう一冊『戦後史のなかの日本社会党』も併せて読みたい。社会党が、やはり我々が思い描くような一枚岩の左翼政党ではなかったことを理解したとき、現実政治がイデオロギーだけでは割り切れず、また逆にイデオロギーに固執したが為に社会党がついに責任ある態度をとることがなかったことも、歴史の教訓と言えるのではないか。

■次に『ブリュメール18日』。こちらはマルクスの政治的ジャーナリズムの書である。2度のクーデターにあっさりと失敗し亡命を余儀なくされたナポレオン3世の政権獲得の過程を、マルクスが彼の理論に基づいて解説してみせる。ボナパルティズムという語はまさにこの作品から生まれたものである。尤も、現在ではブルジョワとプロレタリアの勢力が拮抗したときに両者の調停者として振舞うことにより独裁を実現する体制=ボナパルティズムという一般化は難しく、多くの場合この理論は破棄されていることには注意を要するであろう。しかしそれにも拘らず、この本は素直に面白いと思う。ブルジョワ政治家に吐き掛ける罵詈雑言、思わず納得しそうになる理論。マルクス主義が世界を席巻したのは、理論だけではなくその面白さにあるのではないかと思うくらいである。また「歴史は二度繰り返される。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉も『ブリュメール18日』が原典であるとされる。マルクスの著作としては『資本論』『共産党宣言』が真っ先に思い浮かぶ事だろうと思うが、是非とも『ブリュメール18日』も読んでみてほしい。いや、むしろ『宣言』などを知らずとも読めるので、その点では気軽に読める本であると思う。のめりこまない限り推奨したい。なお、平凡社版には補論として柄谷行人の「表象と反復」という批評が付いている。私はあまりこの手の議論は好かないし、内容もかなり恣意的で、だから批評家は嫌いなんだと言いそうになるものだったが、好きな人は読んでみても良いのかも知れない。個人的にはイデオロギーを現代思想でデコレートしたような印象を受けたが。勿論マルクスの著作も一種の政治批評なのだろうけども、この両者に感じる差異は一体何なのだろうか。私にはどうにもマルクスの『ブリュメール18日』に見られるような切れ味を見出すことはできなかった。鈍いメスでは腑分け出来ないのだなぁ。


■積本にも気軽に読めそうな文庫本がかなりあるので、こういうのをちゃっちゃと片付けたいと思いつつ、法学の勉強が圧倒的に不足していることを嘆く今日この頃。読んでいる本からして、法学向きの人間には見えないだろうなあこれ。

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 ■2chの利用者ならば良く見かけるであろう「チラシの裏にでも書いとけ」という台詞。中々に痛烈だと思う。折角人に見られることを期待して書き込んだのに、お前の情報や案は他者にとって何等の意味も持たないと宣告するに等しい発言だからである。そしてそこには、公開するならば何らかの価値を持たねばならないという、日常的な感覚からしてもごく当然のことであるように思える前提がある。しかし、ここに自由という問題が絡むと、事態は複雑な様相を示す。

■意識せずして価値を持つ文章を書けるならば言うことはない。しかし初めから良い文章を書ける人は滅多にいない。そうすると、皆良い文章家となる為の訓練期間を経ることになる。ところがどのような文章を良しとするかは人それぞれであろう。その感性を磨くべく練習が必要となるのだが、他人にとっての価値を追うのだから、感性を「磨く」といいつつ人に合わせる作業がそこには存在しているといえる。言い方を換えると「自分を枉げる」ことになるだろう。ここでもし「自由に文章を書くこと」つまり思うが侭に書くことにつき譲歩しなければ、確かに自分の傾向は先鋭化するかもしれない。しかしただ先鋭化すれば価値を持つかと言えばそれは違うだろう。少なくとも、価値を持たないと多数が判断したからこそ修正を求められているのだから。

■一方で真似るだけでは没個性と言わざるを得ない。従って文章修行に於いては自我と他者の対立を如何にして纏めて行くかといったことが問題となる。それは非常に苦しいものだろう。単に技術の問題の止まらず、自らの態度―つまり、人格にまで踏み込んだ解決が求められることもあろう。しかし何れにせよ、どちらか片方を取れば済むという問題ではない。だから常に他者に晒されながら、自らの文章を直していくことになるだろう。当然ながら、その為には常に書かなくてはならない。

■普通はそれだけの時間も無ければ気概も無い。故に、私のように無価値な文章しか書けないのである。ここはblogだからまだしもだ。読み手のコストは精々リンクをクリックする手間と暇くらいである。しかし、これが売り物であれば、どうだろうか。コストが高くなればなるほど「チラシの裏にでも書いてろ」という声は大きくなるだろう。無論チラシの裏に書くだけでは読んでもらえる文章にはならない。しかし、チラシの裏に書いている限り誰をも害さないのである。公開するならば「それでもなお」という覚悟を固めなくてはならない。それはチラシの裏に書くような気楽なものではないし、時に譲歩も強いられるだろう。そのときどのような態度を取るか―いつかチラ裏宣告を受けないような文章を書けるようになりたいものである。

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通俗的にして広義の法学クラスタ
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読書、語学、政治、哲学、睡眠
自己紹介:
所謂一つの凡夫。通称将軍様(@Kevtaro)。来年は法科大学院に通うらしい。でも法学は別段得意ではなく、政治の話をすることを好むとか何とか。そんな無知蒙昧クラスタです。啓蒙クラスタ尊敬しています!


相互リンクとか何だかテキストサイトをやっていた頃を思い出すようで懐かしいと同時に憧れなくもないよね。


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