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―主よ、何処へ行かれるのですか? ―万軍の主って正しく将軍様のことだよね。
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注意:ここでいう宗教とは一神教を想定している。多神教は常に具体的な望みに対応する神がいるので、特に倫理的な話の対象にはならないような気がするからである。もっとも、そのようなものを必要としない文明は、恐らく幸せなものなのではないか、とは思う。従って私は日本も一神教のような力強い宗教が必要だ、といった論は採らない。また、この草稿は主に私の日記を可読化し、多少の加筆修正を行ったものである。原稿とする際には議論の結果を踏まえて総合し書き直そうと考えている。ご容赦願いたい。

 

 

7月21日 

 

 必要なのは「宗教」なのか<救済>なのか。「普通」の人はそれほど惑うことはなかろう。

 

7月23日

 

 若し必要とされるのが「宗教」のみで、必ずしも<救済>ではないとするならば、一体どういうことが起こるだろうか。救いを伴わぬ宗教など聞いたことがない。それでは、救いの伴わない宗教とは一体何なのだろうか。判然としない。そこでまず<救済>について少し考えてみたい。

 「普通」の人は一般的・全般的・抽象的な<救い>、つまりは無条件での生の肯定など必要としない。これは同時にad hocな救いならば求め得るということでもある。試験に合格しますように、とか病気が治りますように、だとか、そんな類のものである。この種の救いを求めることはごく「普通」のことだ。そしてad hocで具体的な救いのみで十分とされるのは、これらの一時的な障害さえなければ基本的に人生は特に苦しいものではないと考えているからではあるまいか。逆に抽象的な<救い>を求めるということは、人生そのものが抽象的に苦しいと感じているのだろう。このような者に対する<救い>は何故宗教に必須のものとされるのか。それは具体的な救いを基礎付けるからかもしれない。

 

7月24日

 

 Live one's lifeという言い回しは実に面白く、我々は固有の<人生>を生きると言える。それは固有であるが同時に抽象的に他者と重なり合う。為に、我々は理解しあえるのだろう。

 人生が固有のものである以上、それは完了態なのだろう。仮令退屈な「日常」が観念されようと、その繰り返したる<人生>はやはり一度きりのものであり、尊重されて然るべきである。また固有のものである以上、他人がその評価を決めることが出来ようか。人格についての評価ならまだしも、<人生>自体の価値は結局自分で決めるものである。故に、carpe diemなる言葉は意味を持ちうる。日を摘み取れ。その言葉は決して他人の生を否定するものではない。あなたが満足するように生きれば良いと、肯定する言葉なのだ。我々は斯く生きなければならない。

 併し、それでは他人に迷惑をかけても良いのかと言う問題は当然に現れる。この問題については、それが本人が何時か後悔しなければならず、かつそれを受け入れる限りで「然り」といわねばならないだろう。因果応報とはよく言ったものだ。そして「経験的に」という言葉で表される抽象的な重なり合いから導かれる「道徳」はまさにそのような報いを受けるべき行為を指し示すのであろう。

 

 

 

 

7月28日

 

 それでは、重なり合うところが少ないと<感じている>例外者は一体どのようにすればよいのだろうか。彼は結局己の倫理規範を打ち立てなければならない。それ以外に頼れるものがあろうか。 すると、自分の倫理規範により自分を肯定するということになる。何たることか。それでは堂々巡りだ。しかしそれにも拘らず断固として自らを肯定し、生きなければならないのだ。自らを否定する、或いは批判するということは狂気に陥るということである。狂気は死と同義語である。

 さて、自らの手により倫理規範を打ちたてることは独善であろうか。確かに、独善に陥る蓋然性は高いかもしれない。しかし、独善に陥れば報いを受ける。従って、若し報いを避けることを望むならば、それ相応の倫理規範を打ち立てなければならないということになる。そうすると、他人の存在が問題となる。強情を張ろうとも<彼等>は決して許さず、例外者を迫害し続けるであろう。ならば、<彼等>に謙るのは如何だろうか。何となれば、自己とは自己自身のみにて成り立つものに非ず、自己自身と他者によって初めて成るものだからである。物を計るには必ず比較対象が必要なものだ。では比較した後になお頑なであったらどうなるか。彼は孤独のうちにあり続けるであろう。それは全き絶望と言わざるを得ない。

 だから我々は一度悩みに陥ることにより他者の必要性を認識し、思い切って決断せねばならない。さもなくば、さながら地雷原を歩むが如く、常に絶望の危険に晒され続けることになる。<救済>とはまさしく、この地雷原からの脱出、罠にかからないような状態を指すのである。

 では何故、ここで宗教なのか。それは神が絶対的他者であり、比較対象として完全なものとして観念され生じせしめられるところのものであり、何より心を開けば必ず話を聞いてくださる寄る辺だからである。心を開くということは論理的に行われることではなく、飛躍的な決断、即ち信仰だ。

 しかしそれならば、必ずしも「宗教」である必要は無く、信頼できる仲間を作れば良いと言うことになろう。そうすることの出来ない環境にある人間を<救う>ものこそ宗教であり、神なのではなかろうか。逆に、それ以外のことを宗教が志向したとき、それは人々を苦しめる桎梏となろう。

 だから宗教の持つ要素には重大なものがあることは認められるところだが、そのような桎梏とならば、それはイデオロギーであるということになる。イデオロギーは人を幸福にはしない。何故なら、それは人々を<塗りつぶす>。一色に塗りつぶし、その人の生、one's lifeを否定するのだ。従って、求められるべきものは脱イデオロギーである。宗教がその対象であることもあるだろうし、特定の思想が対象たることもあり得る。対抗するにはやはり仲間が必要だ。そう、何れにせよ仲間が必要なのだ。そして、そのために必要なことは、極言すると唯一自己を引き受けることである。全ての自由と引き換えに、全ての責任を負う―そうでなくては、どうして信頼されようか。そして、信頼なくして仲間を作ることなど出来ない。そうした自由が根底にあれば、必ずや胸襟を開き、腹蔵なく語り合い、そして共感することが出来る。かくして人は<救われる>。それは同情のような見下した行為によってでは決してない。

 「以上のようなことは、私にだって考えたし、書こうと思えば幾らでも書ける」という人もいるかもしれない。それは大いに結構だ。これほど素晴らしいことがあろうか。

 Hic Rhodos,hic salta!―ここがロードスだ、さぁ飛んでみろ!私は私を越えていく者を歓迎する。どうかペンを取り、共に書きまくろうではないか。この不自由な時代を生き抜く為に。

 

 

 

 

 

 平成21年8月4日 来るべき新たな時代を祈願して 

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