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―主よ、何処へ行かれるのですか? ―万軍の主って正しく将軍様のことだよね。
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 ■2月10日、親愛なる同志は果敢な一手を放ち、留年に王手をかけた。法科大学院合格からのまさしく逆転の妙手。革命的浪人同盟を裏切ったという批判は忽ち消え、今や溶接された鉄の如き団結が実現されていたのであった。時恰も国立二次試験直前、今こそ革命情勢である。

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■Twitterであれば野望を問われても「勿論半島の赤化統一ですお!!!!!!!1」と答えれば良いのだが、生憎ここはブログでなので、同じ事をするのも芸がないように思える。そこで、折角トラックバックからお題を拝借したことだし私の野望を書いておこうと思う。私の野望とは、今まで学んだロシア語・アラビア語・フランス語・ラテン語・古代教会スラヴ語・サンスクリットに加えてドイツ語・聖書ギリシャ語・ヘブライ語を取り敢えず辞書を引きながらも読めるようになることである。そして、それらの戦線を維持しながらも司法試験に受かるという条件まで付いてくる。しかしまぁ、それは私が語学か法学の天才でもない限り難しくなるだろう。そこで、野望と現実の調和を図らねばならない。そのため、まずは現状を整理してみたい。


■現状私がそれなりに読めるのはロシア語くらいで、次いでフランス語と古代教会スラヴ語が一応辞書を引きながらならある程度理解でき、ラテン語は文章をちゃんと読んだことはないので不明。サンスクリットは文法を一通り終わらせただけで、まだまだ余りにも単語の蓄積が無いので殆ど読めず、アラビア語に至っては忘れてしまった。これらに加えて印欧語としてドイツ語とギリシャ語、セム語としてはヘブライ語が未修言語として挙がっている。このうち印欧語は文法概念の理解にさほど時間がかからないので良いが、ヘブライ語はそもそもアラビア語を忘れているので少し時間がかかるだろう。しかもヘブライ語は不規則変化動詞が多すぎるので、かなり辛い戦いになることが予想される。翻って、既習の言語は単語と少々の語法を覚えれば辞書を引きながらであれば読めると考えられる。尤も、ラテン語は統語論が複雑なので苦労が予想されよう。


■一方法学はどうか。こちらは四苦八苦である。来年度は法科大学院の未修コースにいるが、この1年を以て既習組に追いつかねばならない。流石に法学を全く知らないわけではないから、純粋未修ではない。そのため、最初の1年の授業は恐らく若干の余裕はあるだろう。しかし、余った時間を語学に回すことは少々困難であるといわねばならない。そして、語学は飯の種にならず、他方で法科大学院に進んでしまうと法曹以外の道はこれまた苦しくなる、とするのが通説である。通説に従うならば、法学を優先せざるを得ないだろう。


■ところが、私は法学大好き人間ではないので、法学ばかりやっていると飽きる上に疲れてしまう。そこで語学の出番があるのである。こうして考えてみると、法学で溜まったストレスを解消するために語学をやる、という方式を至当とせねばならないだろう。が、これで今挙げた言語が、辞書を引きながらも読める程度に身に付くかどうかは大いに疑問である。


■そういうわけで、それらの語学戦線を全て放棄し、代わりに朝鮮語を勉強して「夢は半島の赤化統一ですお!!!!!!!!1」とやっている方が良いという結論に至るのであった。自分の芸の無さには全く飽きれる他ありませんな。

(お題は http://theme.blog.shinobi.jp/Entry/399/ より) 

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 ■嘗て私がテキストサイトをやっていた頃の話である。当時中学生だった私は当然ながら碌な文章がかけなかった。パソコンの前に座っても、今日あったことすらまともに文章に出来なかったし、ましてその文章を面白くするなど全く不可能と言ってもよかった。しかし私は絵も描けなければ、音楽も子供の頃からやっている人のようには出来ない。だからせめて文章くらいは上手に書きたくて、とある方に助言を乞うた。その時頂いた回答は「500~600字くらいでパンチの利いたことを書けるといいですね」というものであった。


■実に冗談以外の何者でもないのだが、私はただ500字埋めるだけのことすら出来なかったし、況や「パンチ」など利かせようがなかった。そのため、その目標が如何にも遠いものに思えたのも蓋し当然であろう。それでも私は、取り敢えず文章を書き続けた。毎日下らない文章を読まされる方にもなってみろと思わなくもないが、ともかく書いた。過去ログを見ると全く笑える。いや、勿論それは「笑わせている」のではなく「笑われている」の意味なのだが、とにかく別段面白くも無い文章なのだ。


■しかし、それでも書いたことによって得たことがある。それは「取り敢えず文章が書けるようになった」ということである。最初に述べたとおり、私はその日あったことを文章にすることすら出来なかった。それが、その日あったことや思ったことを文章にすることが出来るようになったのである。別に気の利いたことを言う訳ではないのならば、大したことはないと思うかもしれない。だが、これが意外と出来ないものなのである。諸氏もよければ試してみて欲しい。恐らく、思っていたよりは時間が掛かるだろう。


■そして今、私は相変わらずつまらない文章を書いている。しかし、同時にこの文章は呼吸をするように出て来るでもある。かつて500字を埋めることすら出来なかった人間が、それなりの見通しを持って1000字程度ならば苦もなく書くことが出来るようになったのである。だから、もし何かを書いてみたいとか、訴えてみたいという人は、どうぞ毎日、何でも良いので文章を書いてみて欲しい。内容の良し悪しはともかく、書けるようには必ずなると思う。書けないのは書かないからなのである。

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 ■試験期間によるのか一日中引き籠もっていたことによるのか、良く解らない憂鬱に襲われている。憂鬱だと、本を読んでもどうにも頭に入らない。おまけにその他のことをしても気が晴れるわけでもないので、気分転換なる概念そのものが無意味と化す。今日は概ねかような状態にあったので、あまり勉強が進まなかった。


■併しながら、どうせ頭が働かないのならばいずれにしても同じことであろうと、一口だけウィスキーを飲んだところ、少しばかり状態は改善し、民法の範囲を終わらせるに成功した。明日も食事などで少し良い思いをして、刑事訴訟法を終わらせようと思う。何と言っても、刑訴法と民法さえ終えれば、卒業に必要な単位は足りるのである。反対に、刑訴法は兎も角民法を落とすと留年が確定する。何となれば、民法は必修科目だからである。刑訴法は任意の単位であるので、この後続く民事訴訟法や行政法で回復することが十分に可能であり、かつ私は民事訴訟法の方が好きなので、実のところ明日も刑事訴訟法はほどほどに民法をやろうか等とも考えている。


■どうにも留年等とは無縁に見えると、有り難くも多くの人から謂われているのだが、実際のところはこんなものである。尤も、流石の私も真面目に試験を受けて単位を取れなかったことは無い。その私が成績は措くとしても、どうしてこれほどまでに単位が残っているかといえば、それは去年の試験前に祖父が亡くなり、1週間小豆島に留め置かれたからである。流石に試験前の1週間を失ってしまっては、それでなくとも不勉強であるのに良い成績を期待できるはずもなく、当時は法科大学院を睨んで少しでも成績を改善する必要があったので、受け控えをしたのだ。後から考えてみると、そのときの成績もいつも通り良好とは謂えないものであったので、受け控えの必要は無かったかもしれない。おまけに私は結局東大の未修コースに進むことになったので、愈々以てそのような措置が必要であったのか疑わしい。が、それはやはり後知恵と言うものであろう。


■如上弁護が一体誰に向けられたものなのかは私にも判らないが、恐らく自分に宛てたものなのだろうと、些か自分にがっかりしながら寝ようと思う。

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 ■ある人が「この道を極めるのは私が必要なものを得ることが出来るからだ」と考えたとする。しかし、往々にしてその人が「必要としている」ものは、それを「必要としなければならない」と思い込んでいるものである。そうして、理由を作って、その道とやらを極めるべく資源を傾注していくのだが、その過程においてその人は周りがまるで見えていない。当然だ。彼は真理を得ることが出来ると「確信」しているのだから。だが、そのようなものは幻想に過ぎない。彼の者が目指す「狭き門」は命に至る道ではないし、その行いも単にイデオロギー乃至党派主義に操られているだけのことである。そのような人間は、果たして自由なのだろうか。


■私はこれまで自由について考えてきた。そして、常に自由へと至る方法論を探ってきたつもりである。しかし、その過程では如上の誤謬を犯してきたことだろうと思う。そして、そのような幻想が破れたのは、自分達の作った同人誌―我々はこれこそ現代に必要なものだと考えていた思想をぶつけたつもりである―が、雑誌編集者らによって「こんなの読めないよ」と一蹴され、実際に販売実績も赤字こそ出なかったがそうたいしたものではなく、反響も全くないといった現実に直面したからである。我々は、我々の方法を実践することにより初めて、これまで解剖しつくしてきたと思っていた「外の世界」を直視したのであった。


■実に愚かなことだ、と思うかもしれない。しかし党派主義への道は本当のところ、広く開かれたものである。考えても見て欲しい。君たちこそは狭き門を通る資格があると言われて、どうしてそれを目指さないことがあろうか。恐らく、同じようなことは手を変え品を変え各地で行われていることであろうと思う。選民思想によって自尊心に訴えかけ、圧倒的なカリスマ性を以て教条を伝える。そして、教条に従ったものを讃え、そうでない者に対しても「何、まだまだこれからだ」と優しい言葉をかける。我々が幸いだったのは、我々の団体に何等の害意もなく、また実害もなかったことことだろう。


■然り、我々において党派主義が問題となったのは、単に出した本が売れないということだけである。従って、我々は路線変更を行えばそれで足りる。それに、何より先生の仰っていたことをよくよく解釈してみると、先生が戒めていたのは教条主義であり、イデオロギーであった。イデオロギーが如何に恐ろしいかを教わるにあたり、何時の間にか<脱イデオロギー>という名の別のイデオロギーに染まっていたのであるが、これは我々の過失であったと言っても過言ではない。先生はテキストを絶対視することなく、その歴史や背景などから解釈していた。ならば、我々も先生の仰ったことを自らの手で解釈し、それを自分の文脈に位置づけなければならなかったのである。


■ところが、我々は先生を尊敬するが故にこれを怠った。そしてそのことにより、物の見事に「訴えかけていくべき対象」であったはずの世間に返り討ちにされたのである。何が啓蒙だ、何が団結だ。我々こそ無知蒙昧で分断された一勢力・一党派に過ぎないではないか。


■このような党派―セクトが形成される過程において恐るべきことは、あまりに内向きであるのでその教義が「絶対」とされることである。ここで一つ「絶対」という言葉について考えてみたい。この言葉は裏の意味として独立とか断絶を表すことがある。absoluteというのはab-という接頭辞からも判るとおり、離れていることを意味しているのである。他の者と離れているが故に「絶対」であり、この絶対というのは他と関係がなく単独で成立するということだ。そうすると、その教義の絶対性を強めるのに、内向きで外界から断絶された共同体というのはまことに相応しいといえよう。


■読者諸賢は宗教上の論争についてバカバカしいと思うことはなかろうか。例えば、正教会とカトリックは聖霊が「父」からのみ流れ出すのか、それとも「子からもまた」流れ出すのかという問題を巡って分裂した。外から見ている我々からしてみると、非常にどうでもいい話である。だが、彼らにとってはそのことが生死にも関わるほどなのだ。何故ならば、そのように教えられてきたからであり、その教義は「絶対」であり、そして、そのような教義を真に知っているのは自分達だけであるという自負があるから、他の見解に耳を貸す気は全くない。そして、セクト―つまり、分派が発生するのである。我々こそ真理の担い手だ、奴らは偽者だ、ということだ。


■同様の問題は新左翼と言われた人々にも当てはまる。革マル派や中核派といった過激派が生じるのも実にこうした経緯をたどるからであると推測されている。しかし、考えてみると、革マル派の理論的支柱であった黒田寛一もまた、何度も官僚主義や教条主義といったものを戒めていた。勿論、彼は同時に組織のトップであったのだから、そうした問題に対して責任はあるだろう。しかし、最大の要因はやはり彼を尊敬するがあまりに党員が彼の「教条」を学ぶようになってしまい、その本質を見失ったことにあるだろう。


■そして「何故か」自分達の思想が受け入れられないとなると、組織は先鋭化する。先鋭化―つまり、その思想を極めれば、真理に近づき、そしてその思想は時代が求めているので、必ず受け入れられる「はず」だからである。しかし、当然ながら先鋭化は更なる乖離を招くだけだ。かくて、新左翼諸派は一様に没落の道をたどった。しかしながら、組織は解体せず、ただただ不毛に陥って今日に至る。


■所詮我々は自らの拠って立つべき規範は自分で打ち立てねばならないのだ。それが「言葉を自分の文脈に位置づける」ということである。そのような視点を少しでも見失うと、忽ちにイデオロギーの餌食となる。無論、別に飲み込まれても大したことのないイデオロギーだってある。恐らく、ある程度は誰もがそうしたものに食いつかれてはいることだろうと思う。しかし恐ろしいイデオロギーも沢山ある。飲み込まれていたことに後から気づくものの、気づいてからはどうしようもないものだってある。例えば「新卒で入社し、社内で出世し、定年まで働くことこそが成功である」ということがほぼ絶対視されている今の日本は、それはそれで一つの思想に染まっているといえよう。それは大きな弊害を生まないように一見思える。しかし、どうだろう?どこかで少しでも道を外れれば、その人は「落伍者」として扱われる。そのとき落伍者は気づき、そして同時に最早どうにもならないことを悟るのではなかろうか。それ故の自殺率の高さではなかろうか。


■彼は気づくべきだったのだ。そのような生き方をするにしても、それは自分で選んだものでなくてはならなかったことを。そして、自分で打ち立てた規範であるならば、それを変更することだって可能であることにも。私も嘗て、学生とはこうあらねばならないという考え方に囚われ、それがあまり上手く行かず非常に苦しんでいた。酷いときには死んでやろうかとさえ思うほどであった。しかし、今はそのような悩みを持つことはない。何故ならば、私は私の好きなように生きればよく、自らの思うがままに善く生きればよいということに気づいたからだ。私は勿論、善良であろうと思う。しかしその基準くらいは、自分で決めたい。無論、世のそれと比べてどうだろうかとか、どこまでなら許容されるだろうかということは判断せねばならないが、そうした作業を自分でやらねばならないのである。そうでなければ、ふとしたきっかけで「道」から外れたときに、どうしようもなくなってしまう。人の助けを借りながらも、道は自分で探さねばならない。そして、その道が人と同じであっても、それは全く恥じることはないのだろう。


■自分で考えることと、外界から断絶しないようにすることを両立させるのは難しいことなのかもしれない。しかし、畢竟「自己」とは、その「自己」と「他者」の関係において常に変化し続けるものである。そうした視点を持っていれば、自分なりの考えというものを確立することは不可能ではないと思う。無論、それが幼稚であると批判されることは数多くあるだろう。しかし、そのときはただ、そのような批判―つまり「他者」によって「自己」が修正されるだけのことである。そのとき「自分探し」だとか、そんなことをする必要は全く無い。目の前にある、修正されたところの「自己」こそが正しく自分であり、他者の影響を全く受けていない「自己」など本能以外にありえないからである。


■大学4年間で得たものといえば、こんなところであろうか。多分「そんなくだらないことを考えている暇があればバイトでもすりゃいいのにw」と言われるところであろう。いや全く。私もそうした「普通の」人生を送りたかった。こんなに早く「落伍者」になるとは、思ってもいなかったのだ。蓋し、一寸先は闇である。だが、一度転落した人間は、次に転落しても困らないのではなかろうか。勿論、転落などしないにこしたことはないのであるが……

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所謂一つの凡夫。通称将軍様(@Kevtaro)。来年は法科大学院に通うらしい。でも法学は別段得意ではなく、政治の話をすることを好むとか何とか。そんな無知蒙昧クラスタです。啓蒙クラスタ尊敬しています!


相互リンクとか何だかテキストサイトをやっていた頃を思い出すようで懐かしいと同時に憧れなくもないよね。


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